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 経済産業大臣指定 伝統工芸品 熊野筆

熊野筆は昭和50年(1975年)に、毛筆業界としては、全国で初めて、通商産業大臣(現在の経済産業大臣)により、『伝統的工芸品』の指定を受けました。
それによると、経済産業大臣指定伝統的工芸品熊野筆は、下記の規定により製造された筆とされています。

 
【伝統的工芸品の名称】
  • 熊野筆

【伝統的な技術又は技法
  • 火のし・毛もみには、もみがらの灰を用いること。
  • 寸切りには、『寸木』及びはさみを用いること。
  • 混毛は、『練りまぜ』によること。
  • 糸締めには、麻糸を使用すること。

【伝統的に使用されてきた原材料
  • 穂首は、ヤギ、ウマ、シカ、タヌキ、イタチ若しくはネコの毛又は
    これらと同等の材質を有する獣毛とすること。
  • 軸の素材は、竹又は木とすること。

【製造される地域
  • 広島県安芸郡熊野町

熊野筆 Kマーク

 熊野筆とは

商標登録 第4827487号 


熊野筆 Kマーク 熊野筆事業協同組合は、平成16年(2004年)12月に、当時としては全国的にも珍しい団体商標を取得しました。これは標準文字での商標のため、「クマノフデ、クマノヒツ、クマノ」の称呼となる全ての文字が対象となります。
熊野筆は、下記の規定により製造された書筆、画筆、化粧筆、刷毛とします。

【経済産業大臣指定伝統的工芸品熊野筆

【上記以外の筆類
  • 筆において一番大切な機能部分であり命の部分は、穂首であり、この穂首を熊野で製造することを以って熊野筆とします。
  • 使用する原毛は、獣毛、化繊毛、植物繊維、羽、胎毛等とします。
  • 熊野筆の製造事業所は、熊野町内とします。但し、外注先は、熊野町及びその周辺地域とします。
  • 以上を基本とする下記の書筆、日本画筆、洋画筆、化粧筆、刷毛を熊野筆とします。

 熊野筆 統一ブランドマークとは

商標登録 第4962731号 


熊野筆 Kマーク この統一ブランドマークは、KUMANO FUDEの頭文字の「K」であり、3本の線は、書(黒)・化粧(赤)・画(黄)の世界を表し、動きは協同と成長を意味しています。また熊野筆を生み出す3つの資源である「地域」「人」「伝統」も象徴しています。躍動感のある動きには、新しさと進化の意味を込めています。
製品に統一ブランドマークを表示することで、消費者にもわかりやすく熊野製の筆であることを認知していただき、中国製などの他製品との差別化を図ることを目的としています。さらに現在まで熊野地域で培ってきた技術力・品質・信頼性などを基に、製造業者が一致団結して、より一層優れた筆づくりを行うことをめざしています。それらの活動を通じて、より強固な地域ブランドとして価値を高め、市場の優位性を獲得していくことが狙いです。
現在まで守り築きあげた技術と、お客様からの信頼性をさらに強固にし、『広島発!』世界へ発信する『熊野筆』として躍進していくことをめざしています。  
 熊野筆の歴史

【熊野と筆の出会い】

熊野町で筆作りが始まったのは江戸時代末期と言われています。
当時の熊野の人々は、主に農業で生計を立てていましたが、農地も少なく、それだけでは生活を支えきれず、農閑期には吉野(奈良県)地方や紀州(和歌山県)地方へ出稼ぎに出ていました。出稼ぎの帰りには奈良や大阪、有馬(兵庫県)地方で筆や墨を仕入れて、行商しながら熊野に帰っていました。これが熊野と筆を結びつけるきっかけとなったのです。
こうしたことが繰り返されている間に、天保5年(1835年)佐々木為次は13歳の時、有馬(兵庫県)に行きました。そこで彼は4年間、筆の作り方を学び、天保9年(1839年)17歳で熊野に帰ってきました。また、弘化3年(1846年)井上治平(井上弥助)は18歳の時、広島の浅野藩御用筆司吉田清蔵より、筆作りの技術を学びました。さらに同じころ、乙丸常太(音丸常太郎)も有馬(兵庫県)より、筆作りの技術を学び、熊野に帰ってきました。そして彼らは人々に技術を広め、筆作りは熊野に根を下ろし始めました。

【明治以降】
このように熊野に伝わった筆作りが、飛躍的に発展したのは、明治に入ってからです。
明治5年(1872年)に学校制度が出来、学校に行く子供が増えると、筆がより多く使われるようになりました。そのため、筆作りをする人が増え、良い筆を作る努力や工夫がいっそう進められるようになりました。
明治10年(1877年)には、第1回内国勧業博覧会に出品された熊野の筆が入賞しました。人々のこうした努力によって、熊野筆の名は、次第に全国に知られていくようになりました。
明治33年(1900年)に義務教育は4年間になり、学校に通う子供たちの数が増えると、筆はますます使われるようになりました。この頃から東京、大阪、奈良などでは、近代産業の発展とともに次第に筆作りが衰え始めました。一方、熊野には新しい産業が入らず、筆作りが地域を支える産業として発展していきました。昭和11年(1936年)には、7000万本もの筆を作るまでになりました。

【第二次世界大戦以降】
ところが、第二次世界大戦が起こると、原料が入りにくくなり、また、働く人を戦争に取られるなどの理由から、筆作りがほとんど出来なくなりました。
戦争が終わって2年後、学校での習字教育がなくなりました。このことは、熊野の筆作りにとって大きな問題で、人々は、この問題を解決するために知恵を出し合いました。そうして、このころ画筆や化粧筆作りに活路を求める人もありました。
そのうちに小学校で毛筆習字が許されるようになり、昭和33年(1958年)には、文部省の学習指導要領に取り入れられ、筆作りに再び希望が持てるようになりました。

【伝統的工芸品認定から現在まで】
昭和50年(1975年)には、熊野の筆産業が、中国地方で最初に伝統的工芸品として通商産業大臣(現在の経済産業大臣)より指定を受けました。
さらに平成16年(2004年)12月には、当時としては全国的にも珍しい団体商標を取得しました。これは標準文字での商標のため、「クマノフデ、クマノヒツ、クマノ」の称呼となるすべての文字が対象となります。
平成18年(2006年)1月には、熊野筆の統一ブランドマークも開発され、熊野で作られた製品である証として、広くPRされています。

今や熊野筆は、多く人々からその品質を認められ、世界中で親しまれています。